生命の言葉 一覧

生命(いのち)の言葉

神社は心のふるさと 未来に受け継ごう 「美(うるわ)しい国ぶり」

 

令和六年十一月【明治天皇】
天地も うごかすばかり
言の葉の まことの道を
きはめてしがな

この広大な天地をも
感動させるほどの
歌の言葉にこめる
人の心のまことの道を
深くきわめたいものである。 

『明治の聖代』(明治神宮)
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■祝詞(のりと)
祝詞とは、神様に捧げる「言葉」であり、神事で神様に願いや感謝をお伝えするときに、神職がご神前で唱えるものです。祝詞のはじめに、私たちがお恵みをいただいている神様への畏敬の念を込めて、「かけまくもかしこき」(声に出すのも畏れ多い)という、麗しい大和言葉が用いられています。祝詞には、「言霊(ことだま)」という言葉に魂が宿るという考えが込められています。
日本人は、言葉を単なる意思疎通の媒体ではなく、神々につながる神聖なものと考えてきました。神職は祝詞を奏上することで神様と参拝者をつなぎ、神人合一と言霊の霊妙な力をもって、祈願成就のお導きをいただきます。但しそこに「誠」の実践が伴わなくては、その祈りは神様のもとへ届かず、願いは叶いません。
「誠」は「ま・こと」《ま》は「真実」の《こと》は「言葉や事柄」という意味で、日本の重要な価値の一つで、祭りにも欠かせません。
神道では罪穢れを祓うことで「明き(あかき)」「清き」心へ立ち返ると考えられています。その清明心は神々の心にも近づき、「誠」の道にも通じるものと考えられています。
令和六年十月【老子】
知る者は言わず
言う者は知らず

【老子(ろうし)】
紀元前六世紀の人物とされ、古代中国の哲学者。その著書を『老子』あるいは『老子道徳経』などという。後世、道教の始祖として神格化されたが、事跡はほとんど不明である。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■供える心
神様へのお供えというと一般的に「神饌(しんせん)」をさします。お米、御神酒(おみき)、お塩、お水がお供え物の代表ですが、お祭りによっては魚や野菜、果物など様々なものをご神前にお供えします。
お供えするものには「その時の旬のもの」が良いといわれることがあります。その時期に収穫された農作物や海産物など、それぞれの季節の恵みに感謝する心で神様にお供えをします。また、こ馳走(ちそう)という言葉の語源には、「あちこち駆け回る」という意味があり、大事なお客様(神様)に喜んでいただく為に色々と努力してきたことが転じて、その成果としての食べ物をさすようになりました。お供えするものも必ずしも食べ物に限らず、「香り(香道)」や「彩り(華道)」のお供えや「音楽」「お神楽」などの芸能も「御奉納」としてお供えされてきました。
これらは全て神様に対して自分たちができる「感謝の気持ち」を形に表したものといえます。
人生の節目やお祝い事に際して「感謝の形」をご神前に捧げてみてはいかがでしょうか。
令和六年九月【新渡戸稲造】
信実と誠実をなくしては
礼儀は茶番であり
芝居である

【新渡戸稲造 (にとべ いなぞう)】
明治・大正期の農学者・教育者。文久二年(一八六二)、盛岡生まれ。札幌農学校卒業後、東京大学を経てアメリカ・ドイツと留学し、札幌農学校教授、第一高等学校校長、東京帝国大学教授、東京女子大学学長を歴任。また「太平洋の橋たらん」の信念のもと、国際連盟事務次長として国際理解と世界平和のために活躍した。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■玉串(たまぐし)
玉串は、神前で拝礼するときに捧げられる榊(さかき)の枝です。榊は常盤木(ときわぎ)と言われ、一年中葉が枯れず緑色をしている木です。緑は豊かなる生命力の象徴であり、「賢木」「栄木」とも称される榊は古くから神霊の依代(よりしろ)として神事に用いられてきました。
「たまぐし」と呼ぶ由来については諸説あり、本居宣長は「手向(たむ)ける串」の意とし、賀茂真淵や平田篤胤などは玉などを装飾に着けたことからとし六人部是香(むとべよしか)は「霊(たま)串」の可能性を述べています。玉串には一般に麻苧(あさお)や紙垂(しで)などの装飾が施されますが、これは「青和幣(あおにぎて)(麻)」と「白和幣(しろにぎて)(楮(こうぞ))」という『古事記』に記述がある布に由来し、貴重な布である和幣を神々に献上する儀礼を継承しています。
一般に玉串を捧げる作法は、葉の部分を両手で持ち根本を神前に向けて捧げます。これは神様の側から玉串が正しい向きで見えるよう、敬いと真心をこめた作法です。殿中に進み入り神前で古儀に則り玉串拝礼をする「正式参拝」において、参拝者には通常よりも清浄さが求められます。身嗜(みだしな)みや服装を整え、敬神の心を以て玉串をお捧げください。
令和六年八月【後醍醐天皇】
みな人の こころもみがけ
千早ぶる 神のかゞみの
くもる時な

【神道知識の誘(いざな)ひ】
■後醍醐天皇(ごだいごてんのう)
鎌倉時代後期の第九十六代天皇。
数え年三十一歳で即位なされ『増鏡(ますかがみ)』によると新政の開始とともに和歌や漢詩文、管絃の会をさかんに催し親(みずか)ら笛や笙を奏し、琵琶の宝器「玄象(げんじょう)」を演奏したとあります。『太平記』には商売や往来の妨げとなる関所の新設を禁止し、また飢饉(ききん)に際しては、米価の高騰を抑え庶民の窮状を救った果敢な政治が称えられています。
さらに、「下の情(こころ)、上に通ぜざる事もあらん」と記録所へ親ら出向き、直に訴えを聞いて理非を決断したとあります。しかし一方で、門閥(もんばつ)貴族の既得権益を守ろうとした公家からは、先例を無視した政治手法や氏素性の知れない者等を政権の要職につけるなど、家柄や門閥を顧慮しない人材登用を痛烈に批判されています。時代の要請もあり討幕を企て実現した「新しい勅裁(ちょくさい)」の政治は、二年余りで破綻・崩壊し、南北両朝が分立・抗争する時代の中、五十二歳で吉野の行宮にて崩御なされます。
後醍醐天皇の御代は、日本の政治、社会、思想、文化の一大転換期となる時代であり、表の歌はそのような背景で詠まれた御製となります
令和六年七月【皆虚】
浅き川も深く渡れ

【皆虚 (かいきょ)】
江戸時代前期の僧、俳人。元和(げんな)二年(一六一六年)生まれ。土佐の真宗大谷派円満寺の住職。連歌を里村昌琢(しょうたく)に、俳諧を野々口立圃(りゅうほ)に学んだ。別号に角茄軒。法名は空願。著作に『四名集』。
標記の言葉は『世話焼草』より。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■朱色
古代の日本において朱色は特別な神聖さを帯びた色として用いられました。昨年、吉野ヶ里遺跡で発掘され話題となりました朱色に彩られた石棺や、古墳時代に弁柄(べんがら)で着彩された石室があげられます。六世紀以降に中国から防腐剤の機能をもつ「丹(に)塗り」技術が伝わると、日本の宮殿を始め寺社の彩色として重宝され、国内で広まりました。朱を魔除けと考える所以が、日本古代からであるか中国伝来であるかは諸説あり定かではありませんが、太陽や火などを連想させる朱色は、日本を代表する伝統色の一つとなっています。
令和六年六月【中江藤樹】
それ神道は 正直を以て体となし
敬愛を以て心となし
無事を以て行となす

それ神道は 正直を以て体となし
敬愛を以て心となし
無事を以て行となす
 
神道の教えの
「正直」を実現するには
愛(包容・調和)と
敬(慎しみ)の精神のもと
誤ちの無いように
日々実行することである
 
【中江藤樹 (なかえ とうじゅ)】
江戸時代前期の儒学者。近江国の人で、その家塾を藤樹書院と称し実践的な神道を重んじた。その高潔な人柄から近江聖人と呼ばれた。藤樹がその独特な神道観を説き始めるのは三十一歳以降の事で最晩年にあたる。儒教の礼法は日本の神道祭儀と一致するという神儒合一論へと展開していき、著書『翁問答』の中で、これを「太虚(たいきょ)神道」と呼んでいる。藤樹の神道観は、弟子の渕岡山(ふちこうざん)により、特に会津地方に根付いていった。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
茅(ちがや)の力
茅(ち)の輪に使う植物の事を茅(ちがや)と言います。イネ科チガヤ属の植物でススキ、アシ等を指します。「世界最強の雑草」と言われるほど生命力が強く、葉には抗菌作用があり笹の葉同様に食べ物の腐敗を防ぐ効果があります。
また古くから屋根の材料として利用され茅葺(かやぶ)き屋根は涼しく吸音性が高く過ごしやすい利点があると共に、葺き換えの際に良い部分を再利用でき、不要な茅は畑の有機肥料に転用できます。これは自然への畏れ・恵への感謝という神道に基づく日本人の暮らしの循環です。
茅の輪をくぐり祓い清め、清々しい心でお過ごしください。
令和六年五月【南方熊楠】
世界にまるで不用の物なし

【南方熊楠 (みなかた くまぐす)】
明治から昭和期の博物学者、生物学者、民俗学者。米国、英国等へ留学し、様々な言語の文献を用いて国内外で多くの論文を発表した。特に粘菌(ねんきん)などの微生物の研究は世界的に知られる。また、民俗学の分野では柳田國男と並ぶ重要な役割を果たした。生涯、在野の学者に徹し、地域の森林生態の保護にも力を注いだ。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■菖蒲(しょうぶ)に託す思い
五月五日の端午の節句は菖蒲を使って行事をするため、別名「菖蒲の節句」といいます。菖蒲の葉は香りが強く薬草としての働きや葉の形が剣に似ているため、古くから中国では災いや病気をもたらす邪悪なものを祓う力があるとされてきました。
日本の古典にも菖蒲を軒や門に連ねて刺し置く「軒菖蒲」の風習が多く登場します。清少納言の『枕草子』や西行の『山家集』には、五月の季節感を美的に象徴する行事として描写されています。『枕草子』には檜皮(ひわだ)ぶき屋根の濃い茶色と菖蒲のみずみずしい緑色とのコントラストがとても魅力的だと評されています。
「菖蒲の刀」「菖蒲枕」「菖蒲酒」など菖蒲を使った風習は、すべて穢(けが)れを祓い清めるために行われていました。
「菖蒲湯」に浸かって健康や無病息災を祈り、菖蒲を頭に巻く「菖蒲の鉢巻き」は賢くて強い子になるおまじない。菖蒲を軒先に下げたり、屋根の上に投げたりすると厄除けになり火事にならないなど、現代においても親しまれています。
令和六年四月【中庸】
遠きに行くには
必ず近きよりす

高い目標を
実現するためには
できることから
一つずつ順を追って
進まなければならない
 
【中庸 (ちゅうよう)】
儒教の基本的な経書『四書』の一つ。もともとは中国・戦国時代の思想書『礼記』の一篇であり、天と人が一体であるという天人合一(てんじんごういつ)を説き、「中庸とは徳の至れるものなり」とその徳と誠の道とを強調している。心のありよう、儒学、陽明学が説く心とは何かが書かれている。中庸とは、極端に偏(かたよ)らず、常に変わらず調和がとれていることをいう。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■新生活を祈る
“人生儀礼”の中で、小学校入学というのはひとつの大きな節目です。
本人にとっては、よろこびや期待で友達がいっぱいできるかなと少しだけ不安な気持ち。ご家族にとっては健康で安全にという気持ち。このような入学や入社などの節目に学校や職場等の近くの「地縁」がある神社に日々の安全を祈り、御守護に感謝するお詣りを心がけてはいかがでしょうか。勧学祭・就学祭を行っている神社もありますし、個別にご祈祷の形で受けることもできます。中学・高校・大学などの進学の節目のお詣りもおすすめ致します。
令和六年三月【尾藤二洲】
良馬は毛にあらず
士たるはその志にあり

人が尊敬を受けるのは
その外見ではなく
人格・人柄という
心の持ち方(志)によって
決まるのである
『静寄軒集』
 
【尾藤二洲 (びとう じ(に)しゅう)】
江戸後期の儒学者。別号は約山・静寄軒。伊予国川之江の出身。幼少時に足を悪くするが、学問で身を立てることをこころざし、大坂に出て学問に励むとともに私塾を開き朱子学の普及に努め、幕府の学問所・昌平黌(しょうへいこう)の教授を約二十年間務めた。柴野栗山・古賀精里とともに寛政の三博士と呼ばれる。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■お礼参り(報賽/ほうさい)
神社に安産祈願や合格祈願などのお願い事をして神様のお導きによって願いが成就した時に感謝の気持ちを表すことが「お礼参り」です。昔の人々はお礼参りの習慣を大切にしておりました。
古来より春の祈年祭と秋の新嘗祭というお祭りは「豊作の祈り」と「実りへの感謝」が対となる神事であるように祈りと感謝は一体でした。
困った時にだけ神頼みをするのではなく、感謝のお礼参りをする習慣は大切にしていきたいものです。
令和六年二月【今上陛下】
学舎(まなびや)に ひびかふ子らの
弾む声 さやけくあれと
ひたすら望む

― 宮内庁 令和二年歌会始 お題「望」
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■手水作法(てみずさほう)
手水は水を用いて心身を清める行為の一つです。古(いにしえ)から神事や祭礼などに関わる人々は身を清めるために事前に河や海に入り禊(みそぎ)を行いました。
禊は伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が黄泉国(よみのくに)から帰り穢(けが)れた衣服や身体を河と海で祓う神話に由来します。この古くから行われていた禊を日常においても略式で行えるようにした行為が手水のはじまりと考えられます。今回は私達が手水を行う手水舎で一般的な柄杓を用いた手水の作法をこ案内します。
(一)右手で柄杓を持ち水を汲み左手を清めます。(二)柄杓を左手に持ち替え右手を清めます。(三)右手に柄杓を持ち替えて左手をお碗状にして水を溜め、その水で口をすすぎます。(四)左手を清めます。(五)お仕舞いに使った柄杓を立て、柄の部分に水を流し柄杓自体も清めます。
この一連を柄杓一杯の水で行うことが望ましいとされています。
令和六年一月【上皇陛下】
波立たぬ 世を願ひつつ
新しき 年の始めを
迎へ祝はむ

― 宮内庁 平成六年歌会始 お題「波」
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■年祝い
長寿を祝う儀式を「年祝い(算賀)」や「祝賀奉祝祭」といいます。一般に還暦以後を長寿のお祝いとし、年を重ねる喜びを家族や地域と共に分かち合う節目の儀礼です。
これらの祝年には、神社でお祓いを受け、無事に人生を送れたことへの感謝と喜びを神様に奉告しましょう。
◎年祝いの名称と年齢(※数え年)と由来
還暦…六十一歳 干支が六十年で一巡して生まれた干支に還(かえ)ることから
古稀…七十歳 中国の詩人杜甫(とほ)の詩の一節「人生七十古来稀(まれ)なり」より
喜寿…七十七歳 「喜」の字の草書体「㐂」より
傘寿…八十歳 傘の略字「仐」を分けると八十と読めるところから
米寿…八十八歳 「米」の字を分けると八十八と読めるところから
卒寿…九十歳 卒の略字「卆」を分けると九十と読めるところから
白寿…九十九歳 「百」の字から「一」を引くと「白」になることから
※地域により異なりますが、祝い年の年齢は「数え年」と「満年齢」のいずれで数えても差し支えないものとされています。
令和五年十二月【本居宣長】
人の行ふべきかぎりをば
行ふが人の道

自分の出来ることを
一所懸命にやる
報われる報われないは
人の力の及ばないこと
このことを心得て
大いなる事にあたるべし
『玉くしげ』
 
【本居宣長 (もとおり のりなが)】
江戸時代の国学者・文献学者・医師。伊勢国(三重県)松坂の人。二十二歳で医学の修行のため京都へ遊学し儒学・古典等を修め国学の道に入ることを志す。松坂に帰り診療所を開業、そのかたわら源氏物語、古事記など古典文学の注釈や漢字音文法などの国語学的研究にすぐれた業績を残した。『玉くしげ』は古道に基づく政治原理をまとめ紀州藩主・徳川治貞(はるさだ)に献上したもの。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■歳神様(としがみさま)
年末になるとお家に松飾りを付けて鏡餅をお供えするのが日本の習慣です。これは、お正月にお家に訪れる歳神様という神様をお迎えする為の準備です。門松などの松飾りは神様が降りてくる時の目印、或いは降りてくる場所として、また鏡餅はお供え物として用意するものです。
縁起の良い献立が並ぶおせち料理も本来は神様と一緒に食べる料理であるといわれます。
今度のお正月には是非、お迎えした歳神様をおもてなす気持ちで、おせち料理を召し上がってみて下さい。
令和五年十一月【今上陛下】
御社の 静けき中に
聞え来る 歌声ゆかし
新嘗の祭

― 宮内庁 平成二十六年歌会始 お題「静」

皇太子殿下には、天皇陛下にお供をされ、毎年十一月二十三日から二十四日にかけて皇居神嘉殿で行われる新嘗祭にお出ましになっています。このお歌は、その折、静まりかえった神嘉殿のお社の中で、外から聞こえる楽部の奏でる神楽の音色に深い趣を感じられてお詠みになられたものです。
平成二十六年歌会始宮内庁解説より引用
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■神人共食(しんじんきょうしょく)
お祭り(神事)の後には直会(なおらい)という行事があり、神職及び参列者が神様にお供えをした御神酒を戴きます。また、大きな祭事では宴の形を取ることもあります。よくお祭り後のお疲れ様会のようなものと勘違いされる方もおられますが、実は神事の一部です。直会は神様にお供えをした神饌(お食事)を飲食することで神様との結びつきをより強くし、神様の更なる御加護(恩頼(みたまのふゆ))を願う「神人共食」の行事です。宮中で行われる毎年の恒例祭典において最も重要とされる新嘗(にいなめ)祭では、天皇陛下が皇祖をはじめとする神々に新穀を捧げ、陛下御親(みずか)らもお召し上がりになられます。
神人共食はお祭りの根本的な意義をなすものなのです。因みに私達が正月三が日に晴れの食事として食べる「雑煮」はお供えした鏡餅と神饌の野菜などを煮て作り、新年を迎えた祭りの後の直会でいただく神人共食の料理に由来します。
神社でこ祈願をした際にお神札等とともに御神酒や神饌が授与される事があります。その際には、お料理などに活用いただくなど神様からのお下がりを食して、ぜひこ自宅での「直会」「神人共食」にご活用ください。
令和五年十月【易経】
積善(せきぜん)の家には必ず余慶(よけい)あり
積不善(せきふぜん)の家には必ず余殃(よおう)あり

善事を積み重ねた家には
子々孫々まで慶福を招き
不善を積み重ねた家には
後世まで災禍が訪れる
 
【易経(えききょう)】
およそ三千五百年前に完成した中国の書物。四書五経の一書。
易とは卜筮(ぼくぜい)に用いられたものだが易経という書物には中国の数千年の歴史の中の何千万例もの事例を統計的に整理してあり、人間処世上の指針教訓としてみられるようになった。孔子の思想と似たものも多くあり、孟子の学派が占いの書だったものを理論化し儒教の教典として編纂したものと考えられる。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■地鎮祭(じちんさい)
地祭(じまつ)り・トコシズメノマツリとも言います。建物の新築や各種土木事業の起工に際し土地の神を祀り神慮を和め、土地の平安堅固・工事の無事安全を祈願する祭りです。『日本書記』の持統天皇五年(西暦六九一年)十月の記載に「鎮祭(しずめまつ)らしむ」と記載があり古くより地鎮祭が行われていたことが分かります。地鎮祭を行う際にはその地域の氏神神社に依頼をします。長い人生の中で家や社屋を建設することは幾度もあることではなく一大事業となります。そのため災禍なく無事に完成し、その後も不慮の災難が起きず平穏に過ごし続け、いつまでも繁栄できるよう祈願します。
令和五年九月【西郷隆盛】
徳に勤むる者は
これを求めずして
財おのずから生ず

誠実な姿勢と言動
人を思いやる心と行動
これら徳を積むことを
心掛けている人には
自然と財力が
生じるものである
『西郷言行録』
 
【西郷隆盛(さいごう たかもり)】
幕末維新期、薩摩出身の武士、政治家。戊辰戦争では薩摩藩の軍事を指揮し、江戸城無血開城を実現させた。明治四年、参議に就任するが政府首脳と衝突して下野。明治十年、西郷が設立に携る私学校の生徒が起こした事件を発端に擁せられ、西南戦争へと発展。政府軍と戦うも敗れ、九月二十四日鹿児島県城山にて腹心に介錯を頼み自害した。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■重陽(ちょうよう)の節供(せっく)
九月九日は一般に「菊の節供」と呼ばれていますが、古くより「重陽の節供」と言います。古来中国では奇数はよいことを表す陽数とし、その中でも一番大きな陽数『九』が重なる九月九日を、陽が重なると書いて「重陽」と定め、不老長寿や繁栄を願うようになりました。平安の頃には菊花を浮かべた菊花酒を飲み、菊花に綿をかぶせ菊の生気の染み出た綿で身体を拭って不老長寿を願う「菊綿(きくわた)(菊の被綿(きせわた))」など菊にまつわる雅な風習も栄えました。他にも、この日に栗を贈る習慣から「栗の節供」と呼ぶ地域もあります。
令和五年八月【皇嗣殿下】
夏の日に 咲き広ごれる
稲の花 実りの秋へと
明るみてくる

― 宮内庁 令和三年歌会始 お題「実」
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■祖先崇拝
死後、御霊の在る幽世(かくりよ)は私達の居る現世と異なる世界ですが、一方の働きによって招き招かれるとされています。御霊は遠いところへ行ったきりではなく、再び戻って来ることができる場所にいると信じられています。私達が祈り偲ぶことによって御霊と通じ、御霊も私達に何らかの事象を通して知らせてきます。
殊に祖先の御霊(祖霊)は、子孫を擁護し見守ろうとする温かい親心に溢れ、決して見捨てぬという慈愛の念に満ちており、多くの祖霊たちが一体となって子孫末裔を護ろうと幽世と現世を行き来しております。
祖霊を敬虔にお祀りすると祖霊は守護神となり、何処からか子孫を護り導いてくださいます。
この祖霊を神として崇め尊ぶ姿勢こそ、日本人の内面に今も尚信仰される祖先崇拝です。天神地祇の恩頼(みたまのふゆ)を蒙り、祖霊たちの絶え間ない働きによっても生かされていることに気付き感謝し、お盆には真心をもって祖霊祭祀に専念することが、心豊かな生活へと繋がります。
令和五年七月【豊田佐吉】
人間のやったことは
人間がまだやれることの
百分の一にすぎない

人間の発明には
まだ多くの可能性が
秘められている
 
【豊田佐吉(とよだ さきち)】
明治・大正期の発明家・実業家。遠江(現在の静岡県)生まれ。能率の悪い手織機を改良することで人々の役に立てると考え、明治二三年「木製人力織機」、明治二七年「糸繰返機」、明治三十年「木鉄混製力織機」を発明。大正七年豊田紡織(現トヨタ紡織)を設立。その後のトヨタグループの礎を築いた。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■七夕(たなばた)の節供(せっく)
七夕は、中国伝来の「織女(おりひめ)星伝説」と「乞巧奠(きっこうでん)」という風習に、日本古来の「棚機(たなばた)」と「神衣(かむみそ)を織る女性」が融合したものと考えられています。民俗学者の折口信夫氏が唱える「棚機津女(たなばたつめ)」の伝承は、水辺に設けた機屋(はたや)に籠り機(はた)織り機で神に捧げる衣を織る乙女とあります。また、『古語拾遺(こごしゅうい)』には「天棚機姫神(あめのたなばたひめのかみ)をして神衣を織らしむ」とあり、古くから棚機をタナバタと読んでいたことが分かります。七夕の伝承・由来は様々あれども、夜空の星をより美しく眺めていた人々にとって七夕の星合う夜空は神に祈り捧げる瞬間であったことでしょう。
令和五年六月【明治天皇】
いそのかみ 古きためしを
たづねつつ 新しき世の
こともさだめむ

わが国の
古来より伝わる
先例のもとつ心を
探り求めながら
新しい時代の
さまざまなことも
定めてゆこう

『明治の聖代』(明治神宮)
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■大祓詞(おおはらへことば)
大祓詞とは、八百余字の祓(はらへ)の言葉です。日本書紀に中臣氏の祖先神であり天岩戸神話に登場する有名な天児屋命(あめのこやねのみこと)が「解除(はらへ)の太諄辞(ふとのりと)」を司ると記してあり、奈良時代以前より朝廷や各神社で唱えられています。その内容は、天皇の御祖先であられる皇御孫尊(すめみまのみこと)がお治めになられる豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)(日本)の中にあって人々が犯してしまう「社会秩序を乱す罪」「人の道に反する罪」「知らず知らずに犯せる罪」などを天津罪(あまつつみ)・国津罪(くにつつみ)としてそれらを祓い清めるために神々に贖物(あがなもの)(供物)を捧げて祈りなさいと説かれました。
そうすることによって、その罪・穢れは、祓戸大神等という神様たちのお働き、瀬織津比売(せおりつひめ)が早瀬より大海原に押し出し、潮境にいます速開都比売(はやあきつひめ)が罪・穢れを海深く呑みこみ、息吹戸主(いぶきどぬし)が根国・底国に吹き祓い、最後にすべての罪・穢れを速佐須良比売(はやさすらひめ)が打ち消し去ることで、私たちは神様に与えられた元の清浄な姿に立ち帰ることができるとしています。
六月の夏越大祓・十二月の年越大祓で神主と共に唱える大祓詞は罪穢れを形代(かたしろ)に託して身を浄め「睦(むつ)び和(なご)む」大和心に立ち帰る再生の祓詞(はらへことば)なのです。
令和五年五月【千 利休】
習ひつつ 見てこそ習へ
習はずに 善悪(よしあし)いふは
愚なりけれ

人から正しく習わずに
あらゆる物事に対して
自己流で善し悪しを
決めてしまうことは
勿体(もったい)ないことだ
『利休百首』
 
【千 利休(せん りきゅう)】
安土桃山時代の茶人。堺で魚問屋を営む田中与兵衛の子として生まれる。村田珠光、武野紹鴎の流れをくみ、自らのわび草庵の茶を融合して茶の湯を道として大成し、茶道盛行の基を築いた。利休の居士(こじ)号は、豊臣秀吉が正親町(おおぎまち)天皇にお茶を献じるにあたり、勅許により授かったものである。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■端午(たんご)の節供(せっく)
古くは五月の最初の午(うま)の日に行われたため「端午」と呼びますが、別名は「菖蒲の節供」とも言います。菖蒲は古くから邪気を祓うと信じられており、平安時代に宮中で行われていた端午節会(せちえ)では、菖蒲蔓(しょうぶかずら)を身に着ける風習がありました。一方、農村部では田植えに奉仕する早乙女(さおとめ)(若く清らかな女性)が菖蒲や蓬(よもぎ)で屋根を葺(ふ)いた小屋に籠(こも)り、菖蒲酒を飲んで穢(けが)れを祓う儀式で女性が神聖な存在になるためのものでした。その後、「菖蒲」が「尚武(武を尚(とうと)ぶ)」や「勝負」に通ずると武家に好まれ、強く逞(たくま)しく成長して立身出世することを願う男の子の儀式として定着しました。
令和五年四月【木戸孝允】
人の巧(こう)を取って我が拙(せつ)を捨て
人の長を取って我が短(たん)を補う

ほかの人の良いところを取り入れ
自分の欠点を補うことが大切である
『吉田松陰宛書翰』
 
【木戸孝允 (きど たかよし)】
天保四年長州で藩医和田家に生れ天保十一年、藩士桂九郎兵衛の養子となる。嘉永二年吉田松陰に兵学を学び、その後江戸に遊学、洋式兵術造船術、蘭学などを学ぶ。
慶応二年薩長同盟を結び、その後幕府軍との戦いで勝利を収める。明治元年、太政官に出仕、五箇条誓文の起草に関与。版籍奉還、廃藩置県などに主導的役割を果たした。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■八百万神(やおよろずのかみ)
八百万とは非常に数が多いことを表した言葉で、実数を示したものではありません。江戸時代の国学者本居宣長(もとおりのりなが)は神について、古い書物に見える天地の諸々の神たちを始め、それを祀(まつ)る社に鎮まる御霊をいい、人は言うまでもなく、さらに鳥獣木草のたぐい海山など、その他なんであれ世の常ならず、優れた徳があり、「可畏(かしこ)き物を迦微(かみ)という」としています。
日本には古くから善い神も悪い神も数多の神々が存在し、先人たちは崇敬と畏怖の念を込めて、八百万神と表現し、日々の生活を多くの神々と共に生きる道を歩んできました。
令和五年三月【佐藤一斎】
春風(しゅんぷう)を以って人に接し
秋霜(しゅうそう)を以って自ら粛(つつし)む

他人には春風のような
暖かさで接し
秋の霜のような厳しさで
自己反省する
『言志後録』
(『言志四録』の一書)
 
【佐藤一斎(さとう いっさい)】
江戸時代後期の儒者。人物としては博識・温厚篤実、朱子学のみならず陽明学にも長けており「陽朱陰王(ようしゅいんおう)」とも呼ばれた。一斎の思想は己れを律する姿勢を窺わしめるものとして幕末武士の間で名声高く、門人には渡辺崋山・佐久間象山など多数おり著書『言志四録』から影響を受けた人物に吉田松陰・西郷隆盛がいる。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■上巳(じょうし)の節供(せっく)
三月三日の「桃の節供」のことを古くは上巳の節供と呼び、春を寿ぎ無病息災を願う厄祓い行事でした。上巳(旧暦三月最初の巳の日)は季節の変わり目で、災いをもたらす邪気が入りやすいと考えられていたため、この日に紙や草で作った人形(ひとがた)で自分の体をなで、穢(けが)れを移した人形を川や海へ流して厄を祓っておりました。
人形作りの技術が発展し高級化してくるにつれ、流す人形(ひとがた)から飾る人形(にんぎょう)へと変化し、女の子の「ひな祭り」として定着しました。桃の木は古くから邪気を祓う神聖な木とされ、桃の花を供え無病息災を祈ります。
令和五年二月【渋沢栄一】
世の中のことはすべて
心の持ちよう一つで
どうにでもなる

【神道知識の誘(いざな)ひ】
■初午祭(はつうまさい)
二月の最初の午の日に、全国各地の稲荷神社で五穀豊穣を願い行われる祭事を「初午祭」といいます。これは京都の伏見稲荷大社の御祭神である宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)(倉稲魂神)が、和銅四年(七一一年)二月初めの午の日に稲荷山に降臨されたことに由来します。尚、伏見稲荷大社によりますと「この頃全国的に季候不順で五穀の稔りの悪い年が続いたため、(中略)山背国(やましろのくに)の稲荷山に大神を祀られたところ、五穀大いに稔り国は富み栄えた、この祭祀された日こそが和銅四年の二月初午であった」との見解もあるそうです。稲荷とは「稲成(いねなり)」、つまり稲が成育することを意味し、五穀をつかさどる農業の神様です。稲荷神社は全国各地に三万社あるといわれ、その数の多さからもいかに日本が農耕の国で農業の神様を大切にお祀りしてきたかが伺い知れます。中世から近世へと商工業が発達するに従って、従来のように農業だけでなく、衣食住と諸産業の神様として崇敬されるようになりました。そのため現在の初午祭では五穀豊穣のみならず商工業の発展や商売繁昌も願い祭事が行われています。
令和五年一月【上皇后陛下】
ともどもに 平(たひ)らけき代を
築かむと 諸人(もろひと)のことば
国うちに充(み)つ

【神道知識の誘(いざな)ひ】
■絵馬
祈願または祈願成就の感謝の証として神社に奉納する、馬やその他の絵を描いた額のことを「絵馬」といいます。上部を山形にした板に願い事を書いて奉納する「小絵馬」が現代では一般的ですが、扁額(へんがく)形式で社殿等に奉納する「大絵馬」などもあります。
日本では古くから神様の乗り物として馬が神聖視され、お祭りや祈願のときには、神馬(しんめ)といって生きた馬を神に奉納する風習がありました。この風習が簡略化され、馬の像を奉納するようになり更には板に馬の絵を描いたものを奉納するようになったのが絵馬の起源とされています。
絵馬の奉納習俗は奈良時代には行われていたようで当初図柄は馬でしたが、鎌倉時代には馬以外に御祭神と関わりのある動物(狐や蛇など)の図柄も描かれはじめました。
更に時代が下がるにつれて目の病気平癒を願う為に目を描くなど祈願の内容にあわせ図柄は多様化していき近年では十二支の動物が描かれている物など神社で頒布する授与品としての性格が強くなってきています。
令和四年十二月【平澤 興】
生かされて 生きるや今日の
このいのち 天地(あめつち)の恩
かぎりなき恩

生きていることが
一番ありがたい
生かされている御恩に
感謝しましょう
 
【平澤 興(ひらさわ こう】
日本の医学者。新潟県出身、京都帝国大学医学部卒。昭和二十一年京都帝国大学教授となり、医学部長などの役職を歴任し、昭和三十二年より京都大学総長を二期六年間務める。
昭和三十八年に退官した後は、同大学名誉教授、京都市民病院院長、京都芸術短期大学学長等多くの公職を歴任した。昭和四十五年に勲一等瑞宝章受章。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■神恩感謝
私たちがこの世に生を受け、日々生活しているのは神様に生かされているということを忘れることなく、常に感謝をすること、神前で感謝の気持ちを込めることが大切です。
さらに、神様の恵みである海川山野の食物を食すことで生きる私たちはこの神様の恵み、大自然の生物・植物の生命に「いただきます」の感謝の言葉を忘れてはいけません。
また、願いが叶った時は神様への感謝のお礼参りをすることも大切です。神社ではお願い事だけでなく「神恩感謝」の神事も執り行います。
令和四年十一月【夏目漱石】
やろうと思わなければ
横に寝た箸を
竪(たて)にする事も出来ん

【夏目漱石 (なつめ そうせき)】
江戸牛込(現在の東京都新宿区)で生れる。本名は夏目金之助。明治末期から大正初期にかけ活躍した近代日本を代表する小説家。東京帝国大学英文学科卒業後、愛媛県松山市尋常中学校に英語科教師として赴任。その時の経験が後の『坊ちゃん』の執筆に繋がったのは有名。他に代表作として『我輩は猫である』『倫敦塔』『三四郎』など多数。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■拍手(はくしゅ/かしわで)
拍手とは、神様を拝むとき、両手を合わせて音を立てる作法です。音を立てる際、二回、四回、八回と作法により鳴らす数に違いがありますが一般の神社祭式では二拝二拍手一拝と二回打つことで知られています。
三回以下の拍手は、短拍手、短手(みじかて)と呼び、四回以上手を打つものを、長拍手、長手などと呼びます。また神酒をいただく際に一回だけ手を鳴らしますが、これは礼手(らいしゅ)と言われる作法です。また伊勢神宮のように八回鳴らすものもあります。これは八開手(やびらて)と言い古くから最も重い拍手の作法と伝わっています。その他にも神葬祭(しんそうさい)など葬儀の場では拍手を打つ際に音をたてないようにします。これを忍手(しのびて)と言います。
本来、拍手で音を立てる理由は、喜びや歓喜の気持ちを表すためといいます。そのため、故人を悼み偲ぶときに音を出さずに忍手を打ちます。
『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』には、邪馬台国の風習として、倭人は貴人に対して手を打って敬意を表したと記されています。神様や貴い人に相対したときに喜びを表し拍手を打つ作法は、日本の古い伝統です。
令和四年十月【寬仁親王妃(ともひとしんのうひ) 信子殿下】
実りある 日のくるために
ながさるる 汗は力と
なるを信ずる

― 令和三年歌会始 御題「実」
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■「神宮大麻(じんぐうたいま)150年」
伊勢神宮のお神札「天照皇大神宮」は「神宮大麻」とも呼ばれ、大麻とは「おおぬさ」とも読み、お祓いに用いる祭具を意味します。古くは伊勢の御師(おんし)と称される人々によって「御祓大麻(おはらいたいま)」として全国各地に配布されていました。全国に伊勢信仰が広がったのもこの伊勢神宮の門前町に住む御師の大きな功績が有ります。御師は様々な願い事を神様に取り次ぐことを職務とし、全国各地に赴いてはお神札の頒布と祈祷を行い、また伊勢の産物なども一緒に届けていました。人々がお伊勢参りに来た際には、自らの邸内に宿泊させて両宮の参拝案内をし御神楽を行いました。江戸時代には二千人あまりの御師が活躍しその館も外宮方面だけでも六百軒あったともいわれています。
また、この御祓大麻は日本全国の約九割の家庭にお祀りされていたという記録もあります。
御祓大麻に代わる今の神宮大麻「天照皇大神宮」のお神札は一五〇年前から伊勢神宮において節目ごとに様々な祭事を重ねて、皇室の弥栄、国家の安泰、各家庭の平安を祈りつつ一体一体丁重に奉製されています。
お正月を迎える前に新しい神宮大麻と共に地域をお守り下さる氏神様・鎮守様のお神札を一緒にお祀りして神様に日々の感謝と家庭の一年の無事と幸せを祈りましょう。
神様を敬い感謝を捧げることは親から子へ、子から孫へと受け継がれる日本人の美しい心です。
神宮大麻と氏神様のお神札をお祀りすることは、その心を継承することであり、神棚は神様と家庭とを結ぶ絆なのです。
令和四年九月【石川理紀之助】
磨(みが)くその 力によりて
瓦(かわら)とも 玉(たま)ともなるは
心なりけり

心とは磨き方しだいで
割れやすい瓦にも、
輝く宝石にもなるものである
 
【石川理紀之助 (いしかわ りきのすけ)】
明治から大正期の農業指導者。秋田県種苗交換会の先覚者。生涯を貧農救済に捧げ「老農」あるいは「農聖」と敬称された。
「俺は農民だ。農民が農民を助けないで誰が助けると言うのだ」
農事改良を単なる個人の営みとして行うのではなく、農民を広く組織して集団的研究に高め、自ら全国各地に赴き借金地獄にあえぐ村を見事に再生させた。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■初宮詣(はつみやもうで)
昔は子供が大人になる前に病などで亡くなることが多く、成長の節目ごとに無事を祈り感謝する様々な神事が営まれて来ました。
初宮詣は生後一カ月を迎えた子供(男児は三十一日・三十二日、女児は三十三日目)を日々身近で生活を御守りくださる地元の氏神様の元に参詣する神事です。初宮詣により氏神様の大きな力とご加護を受け子供の健やかな成長をお守りいただき子供も氏子として認められること(氏子入り)になります。
令和四年八月【貞明皇后】
四方(よも)のくに むつみはかりて
すくはなむ さちなき人の
さちをえつべく

― 大正十四年貞明皇后より日本赤十字病院に御下賜の御歌
 
【皇室と日本赤十字社】
日本赤十字社の前身(博愛社)は、明治十年(一八七七年)五月、西南戦争の最中、佐野常民等の設立趣意書を征討総督 有栖川宮熾仁(たるひと)親王が許可し「敵味方の区別なく救う」という赤十字精神で、官薩両軍の疾病者の救護に当たりました。
設立時の博愛社は社員三十八人。この黎明期に財政支援したのが皇室でした。昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)は毎年の寄付に加え、明治十九年に博愛社病院(現・日赤医療センター)の開院式にご臨席。病院移転にあたっては、建設費用と土地を贈られています。
昭憲皇太后は財政支援だけでなく、磐梯山噴火、濃尾地震、三陸大津波など、明治の自然災害の被災者支援に自ら取り組まれました。戦時救護が世界の赤十字の主要任務とされていた時代、日本赤十字社の被災地救護の活動は先駆けとなりました。
関東大震災では、大正天皇の皇后・貞明(ていめい)皇后が自ら度々、日赤救護所や乳児院などを訪れ、赤十字社員を激励し、被災者を見舞われました。皇室は昭和以降も紛争・災害・病気などで苦しむ人を救うため日本赤十字社とともに支援活動を続けています。
令和四年七月【徳川光圀】
苦は楽の種
楽は苦の種と知べし

【徳川光圀 (とくがわ みつくに)】
水戸藩二代藩主。徳川家康の孫。一般に水戸黄門として知られる。藩士に儒学を奨励し、彰考館を設け、紀伝体による日本の歴史書の編纂を開始し、水戸学の礎を築いた。神武天皇より御小松天皇までの百代の治世を記し、後に『大日本史』と呼ばれるその歴史書は約二五〇年後の明治三九年(一九〇六年)に完成した。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■御嶽山禊行(みたけさんみそぎぎょう)
神道では清き直き正しき心で神様の示す道、惟神(かんながら)の道を実践する「浄明正直」の心を大切にします。参拝時に行う手水や修祓は、神様の前に立つ前に清浄な姿に立ち戻る必要な準備と考えられています。神域で奉仕する神職においては、更なる祓いと清めが求められる為、禊行(みそぎぎょう)を行います。
禊行とは神代(かみよ)の昔に亡き妻伊弉冉尊(いざなみのみこと)を黄泉国(よみのくに)に訪ね、恐ろしい死の世界を覗いてしまった伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が阿波岐原(あはぎはら)でその穢(けがれ)を祓い流したという故事に習い、心身の浄化を目指し行う行法の一つです。
白鉢巻を巻き、男性は白褌(ふんどし)、女性は白衣にて沐浴して禊を行います。川や海に浸かる、自ら手桶で体に水を掛ける等様々な形がありますが代表的なものに滝で行われる禊が挙げられます。都内で神職の多くが禊を行うのが青梅市の綾広(あやひろ)の滝です。
古くから山岳信仰の対象とされてきた武州御岳山、頂上の武蔵御嶽神社より徒歩五十分程の山中にあり、落差は約十メートル、水温は真夏でも十五度程度と非常に冷たく、「修行の滝」とも呼ばれています。毎年七月には大勢の神職達が集まり、間違いのない神明奉仕の為にと、滝に打たれる禊行を行っています。
令和四年六月【倭姫命世紀(やまとひめのみことせいき)】
神は垂(た)るるに祈祷を以て先と為し
冥(めい)は加ふるに正直を以て本と為す

神より御恵みを授かるには
祈りと正直が第一である
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■浄明正直(じょうめいしょうちょく)
「浄明正直」とは清(きよ)き(浄き)、明(あか)き(明るい)、正しき、直(なお)き(素直な)心のことで神道の根本を表わす言葉の一つです。古事記や日本書紀にも現在の「善」を表わす言葉として「きよき」「あかき」などの言葉が多く登場することから、古来より私心の無い清らかで澄んだ心が個人や社会にとって重要とされていた事がわかります。神道において人は本来、浄明正直な神様の御心のまま清らかな心を持つと考えます。しかし澄んだ鏡でも放置すると曇ってきてしまうように、人も日常生活を送るうちにその心から離れていってしまうものです。その心をもとの浄明正直な心に立ち返る為に行なうのが「祓(はら)い」です。
祓いは神様の御恵みによって清められると同時に人が主体的に浄明正直な心に戻ろうとする心がけが求められるものです。
六月には祓いの行事の一つである夏越大祓(なごしのおおはらへ)が多くの神社で斎行されます。この半年に一度の大祓を修められ、浄明正直な心に立戻り、曇りなき眼で物事を見極め偽りのない行動を以てより良き社会を目指したいものです。
令和四年五月【井上靖】
努力する人は希望を語り
怠ける人は不満を語る

不満や愚痴は外にもらさず
心の内にとどめ置き
感謝や希望は内にとどめず
声に出して広めましょう
 
【井上 靖】
旭川市生れ。京都大学文学部卒業後新聞社にて雑誌編集を行う傍ら小説を執筆。昭和二十四年『闘牛』で芥川賞を受賞。新聞社を退職し、以降作家として数々の小説を発表。多くの作品が文学賞を受賞。昭和五十一年文化勲章受章。代表作は『氷壁』『天平の甍(いらか)』『風林火山』『孔子』など。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■言霊(ことだま)
言霊は文字の通り言葉に宿る霊力の事。古くから日本では縁起の悪い言葉を嫌い、お祝いの席では「終わる」を「お開き」と言い換えるなど、言葉が現実にならぬよう気遣って生活してきました。他者を思い、幸せを願う細やかな配慮が感じられる習慣です。
悪い言葉が悪しき現実となる心配に対して、良い言葉が物事を良い方向へ導く希望もあります。短文で用件だけになりがちなSNSの発信にも受け取る人の幸せを祈る言葉を、添えてみてはいかがでしょうか。
令和四年四月【昭和天皇】
風さゆる み冬は過ぎて
まちにまちし 八重桜咲く
春となりけり

― 昭和二十七年四月二十八日
 サンフランシスコ平和条約発効に際して
 
【主権回復70周年を迎えて】
昭和二十七年四月二十八日にサンフランシスコ平和条約が発効されました。これにより日本と連合国の戦争状態は終了し、領土領海における主権が認められ、独立を取り戻しました。この御製は平和条約発効の当日、宮内庁より発表された昭和天皇の御製五首のうちの一首です。
昭和天皇は後日、「万世のために太平を開かんと決意し、四国共同宣言(ポツダム宣言)を受諾して以来、年をけみすること七歳、米国を始め連合国の好意と国民不屈の努力とによって、ついにこの喜びの日を迎うることを得ました」と仰せになられました。
本年はこの年から七十年を迎えます。
令和四年三月【論語】
徳は孤ならず
必ず隣あり

誠実な姿勢と言動
人を思いやる心と行動
これら徳を積むことを
心掛けている人は
孤立することなく
必ずよき理解者が
助けてくれる
 
【論語】
孔子(春秋時代末期の思想家で儒学の始祖)とその高弟との処世の問答をまとめたもので、没後四百年をかけて編纂されたものである。『論語』では「仁・義・礼・智・信」の五徳を示し特に「仁」の思いやる心を中心に人間の生きる道義・道徳を説いた。渋沢栄一の代表作『論語と算盤』では論語をもとに国を富ませる経済の在り方を問い日本経済に大きな影響を与えた。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■鳥居(とりい)
「鳥居」は神社の象徴となっていますが、これは神社の入り口に建つ一種の門であり、神様の聖域と人間世界との境界を示したものだと言われています。鳥居の起源については、一説によると天照大御神の岩戸隠れの中で夜明けを告げる長鳴鶏(ながなきとり)を止まり木にとまらせて鳴かせたという神話に由来し、それ以後、神前には鶏の止まり木を作るようになり、鳥居と呼ばれるようになったと考えられています。なお、鳥居をくぐる際には軽くお辞儀をするのがよいとされています。
令和四年二月【上杉謙信】
心に物なき時は
心広く体泰(やすらか)なり

物欲がなければ
心はゆったりとし
体はさわやかである
『上杉謙信公家訓十六ヶ条』
 
【上杉謙信(うえすぎ けんしん)】
戦国武将。越後守護代の後裔で本拠地を春日山城(新潟県上越市)に構え関東管領山内上杉氏の家督を引継ぎ上杉景虎と名乗った。また武神「毘沙門天」の熱心な信者で軍旗に「毘」の一字を掲げ、謙信は出家後の法名である。戦国屈指の戦上手とされ、軍神・越後の龍と称された。上杉家は以後に幾度の変遷を経て明治維新を迎え、明治四一年に謙信の勤皇が評価されて従二位に贈位(ぞうい)されると共に上杉神社に祀られた。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■御餇(おとう)神事
檜原(ひのはら)村春日神社の神事で、「おとう」とは共に食を分かつ、神と同じ釜の飯を食べることを意味し、毎年三月一日から二日にかけて行われます。
当番の男性が一定期間「切火(きりび)」という精進潔斎をし、一日の午後九時に役割を決め、二日の午前零時三十分頃白褌白足袋にて秋川で禊をします。川岸の井戸で水を汲み、米をとぎ、境内に戻り火打ち場で火打石にて熾(おこ)した火で米を炊き、白木の椀に高く盛ります。夜が明けると、白装束(白丁)を着た「おてなが」と呼ばれる当番により御神前に供えられます。
令和四年一月【今上陛下】
人々の 願ひと努力が
実を結び 平らけき世の
到るを祈る

― 令和三年歌会始 御題「実」
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■成人奉告祭
わが国では、古来より人の成長を祝う人生儀礼は氏神様に奉告し感謝するお祭りでありました。誕生の初宮詣で氏子入り、成長の姿を七五三詣で感謝し、成人の時に元服、加冠の儀で祝いました。加冠の儀は烏帽子親(えぼしおや)より冠を授かり、幼名を廃して諱(いみな)を付け、社会の一員と認められました。
鎌倉以前の清和源氏では、八幡太郎義家、新羅(しんら)三郎義光など八幡神社や新羅神社など元服を行った社の名前を付けたと言われています。
現代でも神社では成人奉告祭が斎行され、無事に成人になったことの奉告と感謝のお祭りが行われます。
令和三年十二月【大学】
富は屋(おく)を潤(うるほ)し
徳(とく)は身(み)を潤す

豊かな財産があればその家の姿を立派にするが
豊かな徳はおのずからその人の身を立派にする
 
【大学 (だいがく)】
儒学で尊重される書物の一つ。
五経の「易経」「詩経」「書経」「春秋」「礼記」のうち「礼記」の一遍であったが、朱子により「中庸」「論語」「孟子」「大学」の四書となる。二宮尊徳の石像が読んでいる本が「大学」である。二宮尊徳はこの書を読み深めて、各地の農村復興に取り組み報徳思想を唱えた。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■お焚き上げ
お神札・お守は受けた神社へ感謝の気持ちを込めたお参りをして納めます。お参りは願う時だけでなく必ずお礼参りを致しましょう。
お焚き上げとはお神札とお守に対し神職が感謝の誠を捧げ、忌火を以て焼上げ、天上に立ち上る煙の如く御神霊が元のお社にお戻りになることを祈る神事です。
近年特に都内では境内でお焚き上げが出来ない神社も増えています。神社で受けていないものは、紙などで包み可燃物としてお出しください。
令和三年十一月【世阿弥】
上手は下手の手本
下手は上手の手本なりと
工夫すべし

「人のふり見て我が振りを直せ」の格言がありますが、世阿弥は下手にも得意な芸があり、上手の及ばない芸もあると言います。優れた役者になるためには常に慢心せず謙虚な心で他者から学ぶなど芸に対するたゆまぬ工夫が必要であると説きます。
『風姿花伝』
 
【世阿弥 (ぜあみ)】
室町時代初期、大和猿楽の結崎座猿楽師。
父観阿弥と共に室町三代将軍足利義満の庇護を受けて猿楽を深化させ、言葉・所作・歌舞物語に幽玄美を漂わせる能の形式「夢幻能」の能楽を大成し、観世太夫として観世座を創始した。
幽玄美を重視する多数の能楽書があり『風姿花伝』は代表作で、後世の能楽発展に大きな影響を与えた。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■神宮大麻(じんぐうたいま)
お家にお札をおまつりする時に大切なことは、神宮大麻と氏神様のお札を一緒におまつりすることです。
神宮大麻は伊勢の神宮のお札、伊勢の神宮は国の総氏神様として、天からの恵みを広く皆さんに分け与えて下さいます。氏神様は地域の神様として足元からお家を守って下さいます。天と地、どちらの神様も敬うのが神社の信仰、人と神様のお付き合いの基本です。東京都では毎年約三九万体の神宮大麻がご家庭に頒布され、その数は年々増え続けています。
令和三年十月【吉田松陰】
人生草露(そうろ)の如し
辛艱(しんかん)何ぞ虞(おそ)るるに足らん

人生は草についた露のようにあっという間に終わってしまう
辛いことや困難なことを恐れている時間などどうしてあろうか
『五十七短古』
 
【吉田松陰 (よしだ しょういん)】
吉田松陰は幕末の思想家、教育者。
欧米列強が植民地政策を推し進める中、日本と欧米との国力差を痛感する。日本の将来を危惧し、西洋文明を学ぼうと海外渡航を企てるも失敗し投獄される。出獄後、松下村塾という私塾を主宰し明治維新の原動力となった高杉晋作、伊藤博文など多くの志士を輩出した。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■むすび
古事記の中で「産巣日(むすひ)」と表記される「むすび」は、特別な意味があります。産巣日は高天原(たかまのはら)に二番目に誕生した高御産巣日神(たかみむすひのかみ)と、三番目に誕生した神産巣日神(かみむすひのかみ)の名にあり、万物を生成する霊なる神という語意があります。
苔むす、縁結びのように、何かを生み出す場合にも使われます。おみくじを「結ぶ」という行為もご神縁を結び、効力を生み出す行為です。また食べる「おむすび」も意味があります。おにぎりは形に決まりがないですがおむすびは三角形。古来日本人は山を神格化し、御飯を山形にすることで神霊の力を授かろうとしたのです。
令和三年九月【ロバート・ベーデン=パウエル】
幸福を得る本当の道は
ほかの人に幸福を
分け与えることにある

「この世の中を君が受け継いだ時より少しでもよくするように努力し、あとの人に残すことができたなら、死ぬ時が来てもとにかく一生を無駄に過ごさず最善をつくしたのだという満足感をもって、幸福に死ぬことができる。」と続きます
『ラストメッセージ』より抜粋
 
【ロバート・ベーデン=パウエル】
ボーイスカウト運動の創始者。
自身の体験から野外教育を基礎にした青少年教育に関心を持ち一九〇七年英国ブラウンシー島で二十人の少年達と実験キャンプを行なった。少年達の成長に確信を得て、翌年スカウト運動の事務所を設置。現在も世界百六十九の国と地域でボーイスカウト運動が行なわれている。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■神社とボーイスカウト
ボーイスカウトは入団時に「ちかい」をたてます。誠実や感謝等の徳を日々養うこと。他人を助ける事。そしてその実践を神様と自分自身に対して誓います。これらの考え方は神道と共通する部分も多く、健全な青少年の育成の為、全国の神社関係者によるスカウト組織が昭和三十六年に発足。その年の夏には神宮が鎮座する三重県伊勢市にて、神社スカウト達が一堂に会する全国大会が開催されました。全国の神社の杜の中で、神様に見守られながら多くの若者達が現在も活動をしています。
令和三年八月【皇后陛下】
災ひより 立ち上がらむと
する人に 若きらの力
希望もたらす

― 令和二年歌会始お題「望」
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■忌火(いみび)
「忌火」とは、潔斎(けっさい)をした神職により火鑚(ひきり)等の古来の道具によって新しく熾(おこ)された神聖な火の事で、この火を使って神前に供える物の煮炊きを行います。
伊勢神宮外宮の御饌殿(みけでん)で毎朝毎夕に行われる日別朝夕大御饌祭(ひごとあさゆうおおみけさい)では前日より忌火屋殿にて「火鑚杵(ひきりきね)」と呼ばれるヤマビワの木の棒と「火鑚臼(ひきりうす)」と呼ばれるヒノキの板の穴をこすり合わせ火を熾し神饌が調理されます。
また出雲大社の十一月二十三日に行われる古傳新嘗祭(こでんしんじょうさい)においては、古式のままに熾された神火、神水により炊かれたご飯、醴酒(ひとよざけ)を天地四方の神々に供し、宮司自らも食して相嘗(あいなめ)の儀を行います。
東京都檜原(ひのはら)村の春日神社で毎年三月一日から二日に行われる「御(お)とう神事(東京都無形民俗文化財指定)」では一定期間精進潔斎をした氏子当番が深夜秋川(あきかわ)で、白褌(ふんどし)、白足袋にて禊(みそぎ)をし川岸の井戸から水を汲み、火打石によって新しく火を熾し、米が炊かれ調理を行い、翌朝神前に供え祭典が執り行われます。
令和三年七月【渋沢栄一】
礼儀ほど美しいものはない

礼儀とは人の持てる
最高の美徳である
 
【渋沢栄一 (しぶさわ えいいち)】
日本の資本主義の父とされ、新貨条例、国立銀行条例など諸制度改革を行う。日本に株式会社(合本組織)を導入、第一国立銀行(現みずほ銀行)を始め多種多様の会社約五百社の設立や創設に関与し日本資本主義の発達に大いなる貢献をした。
令和四年より新一万円札の図柄が渋沢栄一となる。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■三匹獅子舞(さんびきししまい)
三匹獅子舞は、関東地方とりわけ旧武蔵国(埼玉県・東京都・神奈川県東部)に広く分布する一人立ちの三人一組からなる獅子舞です。獅子は腹にくくりつけた太鼓を打ちながら舞い、篠笛とささらが伴奏につき、天狗太夫、神主といった道化役がいるものもあります。主に神社の夏祭礼として、五穀豊穣、疫病退散、防災、雨乞いなどの祈願や感謝のために行われるものが多く、正月にみる獅子舞や神楽での一般的な獅子舞とは異なる中世・近世に発達した獅子舞です。
令和三年六月【御成敗式目】
神は人の敬(うやまひ)に依(よ)りて威(い)を増(ま)し
人は神の徳(とく)に依(よ)りて運(うん)を添(そ)ふ

神さまを敬う人の
純粋な真心にふれ
神さまのご威光は
さらに輝きを増し
神さまの広き厚き
ご神徳のご加護で
人は導かれ運を開く

神さまと人とは
一方通行ではなく
お互いがお互いを
高めあう存在である
 
【鎌倉幕府の武家法「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」】
御成敗式目は、武家政権の最初の武家法で、貞永式目(じょうえいしきもく)とも呼ばれます。承久の乱後に鎌倉御家人と公家、荘園領主間に問題が多発し、貞永元年(一二三二年)に執権(しっけん)北条泰時(やすとき)により頼朝以来の先例と武家社会の慣習と道徳を基準に制定されたものです。
表面の言葉は、第一条の「神社修理し祭祀専らにすべき事」の条文に標記されています。この敬神の心は室町幕府・戦国の分国法、そして江戸へと受け継がれます。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■源頼朝(みなもとのよりとも)と神道
源頼朝は神仏への崇敬心の厚い武将であったことは鶴岡八幡宮や三島神社への寄進など記録に明らかですがことに伊勢の神宮への崇敬は特別でした。鎌倉以前は国家の神祇(じんぎ)制度により「私幣禁断(しへいきんだん)(天皇以外は幣帛(へいはく)を奉ることを禁ずる)」であった神宮に対し、自ら御厨(みくりや)を寄進するばかりでなく、部下にも寄進を推奨したほどでした。こういった神社仏閣への積極的な関与は鎌倉の伝統として「御成敗式目」に引き継がれ、のちに庶民にも伝播していきました。庶民が自由に神宮への参詣ができるようになった要因は源頼朝によって導かれたといっても過言ではありません。
令和三年五月【坂 静山】
怠らず 行かば千里の
末(すえ)も見ん 牛の歩みの
よし遅くとも

牛の歩みのように
たとえゆっくりでも
怠らず続けていけば
遠い道のりでも
たどり着くことができる
 
【坂 静山 (ばん せいざん)】
尾張(愛知県)出身。江戸前期から中期に活躍した歌人。
京都公家烏丸光雄(からすまる みつお)に二条流和歌を学び「和歌継塵集(わかけいじんしゅう)」などを著した。なお、「坂」は「阪」とも書き、「さか」とも読む。門人には和歌に風刺や皮肉を織り込んだ「狂歌(きょうか)」を流行させた内山賀邸(うちやま がてい)や平秩東作(へづつ とうさく)などがいる。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■参道(さんどう)の中央
参道の中央を「正中(せいちゅう)」や神様の通り道なので避けるべきと言う人がいます。本来「正中」とは社殿内・祭場内で御神座の真正面の事を言い、参道に「正中」や神様の通り道はありません。
どのような道でも中央を歩くことは慎しむべきです。武士は刀がぶつかり合う事を避けたので日本では左側通行になったと言われています。神様の鎮まる所へと進む「参道」を歩くのであれば自然と中央を避けて歩く謙虚な気持ちとなる事でしょう。こういった習慣は大事にしたいものです。
令和三年四月【後藤新平】
人のお世話にならぬよう
人のお世話をするよう
そしてむくいを求めぬよう

後藤新平がロンドンへ洋行した際に見た
ボーイスカウトの訓練に感銘を受け
帰国後の大正十一年に少年団日本連盟を組織し
この「自治三訣(じちさんけつ)」の訓辞を掲げた
 
【後藤新平 (ごとう しんぺい)】
医師として勤務していた医学校でその手腕が認められ二十四歳にして学校長兼病院長に就任する。
のちに南満州鉄道初代総裁、内務大臣、外務大臣などの要職を歴任。二度目の内務大臣就任の際には帝都復興院総裁を兼任し、関東大震災後の復興に尽力し今日の東京の都市計画の基礎を築いた。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■春祭り
春は日本人にとって一年の始まりで多くの神社では春祭が執り行われます。その年の農耕の始まりを神様にお告げして秋の実りを祈ります。
「すべてのものに神様が宿る」という神道的考えから農作業に関わる全てを大事にしながら、無事に秋の実りを迎える事ができる様にお願いします。神様へ「御恵」に対する感謝をささげる、神様と人の暮らしが深く結びつく大切なお祭りが生まれたのでしょう。春祭は、春を祝い一年のあらゆる「始まり」が素晴らしいものになりますようにと一年の無事を祈るお祭りでもあるのです。
令和三年三月【松下幸之助】
好況よし
不況なおよし

正しい経営が行われている限り、
不況こそ好機なのだ。
そして不況は人がつくったものだから、
人に不況が解決できないはずはない。
『松下幸之助 叱られ問答』
 
【松下幸之助 (まつした こうのすけ)】
和歌山県生まれ。パナソニック(旧松下電器産業)グループ創業者。戦後困窮をきわめた世相を目の当たりにし、「人間は限りなき繁栄と平和と幸福を原則として与えられている」との考えからPHP(繁栄によって平和と幸福を)運動を始め昭和二十一年に実現するための研究機関としてPHP研究所を創設。昭和五十五年、二十一世紀を担う指導者の育成を目的に、松下政経塾を開塾。平成元年に九十四歳で逝去。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■鎮花祭(ちんかさい)
鎮花祭は疫病がはやらぬ様、疫神(えきがみ)をおもてなし、和め鎮める祭です。
『新拾遺和歌集』に「のとかなる春のまつりの花しづめ風おさまれと尚いのるらし」とあるように、春花が咲くころ人の心は不安定となり、そのすきに疫神が病をおこすと考えられています。桜の花の咲くころに行われる鎮花祭の起源は、第十代崇神(すじん)天皇の御代に疫病がはやり、大物主神を祀り鎮花祭をしたのが始まりです。
古くは恒例の祭として、三月末に多くの神社で行われ、神前に桜花の枝が奉られるのが特徴です。
令和三年二月【今上陛下】
雲間より さしたる光に
導かれ われ登りゆく
金峰(きんぷ)の峰に

― 平成三十一年歌会始お題「光」
 
国旗「日の丸」
国旗には、国家の伝統と誇りが込められ、国家の独立と主権を表します。
わが国の国旗は幕末安政七年(一八六〇)三月に日米修好通商条約批准書交換の際に派遣された幕府の咸臨丸が船尾に「日章旗」を掲げサンフランシスコ港に堂々と入港したことが外交上の初見で明治三年(一八七〇)の商船規則には船舶識別旗として制定されました。
その形状は隋書倭国伝に「日出づる処の天子」とあるように太陽を紅色で清浄・純白の心を白で表され一般的に「日の丸」の愛称で親しまれています。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■追儺式(つひなしき)
追儺とは「おにやらい」とも呼ばれ疫病等をもたらす疫鬼を追い祓い災厄や邪気を除く行事です。もともと中国から伝えられた習俗ですが続日本紀(しょくにほんき)によると文武天皇の慶雲三年(七〇六)に諸国で疫病が蔓延し多くの死者が出たので「おにやらい」を宮中で行なったとの記述があり日本で初めての追儺の儀式と考えられています。その後、春を迎えるにあたって災厄を祓う行事として大晦日(旧暦で立春の前日)の宮中行事として行なわれるようになり、次第に民間にも広まっていきました。
江戸時代になると「追儺」は宮中行事ではなくなりましたが、民間や多くの社寺において「節分」の豆まきとして現在でも続いています。因みに「節分」とは「季節の分かれ目」という意味で、立春、立夏、立秋、立冬の前日はすべて「節分」となります。しかし立春が一年の初めと考えられていたことから立春前日の節分が最も重要視され一般的に「節分」とは立春の前日の事を指します。なお今年は二月二日が節分となります。
令和三年一月【明治天皇】
あらし吹く 世にも動くな
人ごころ いはほに根ざす
松のごとくに

― 明治三十七年歌御会始勅題「巌上松」
 
国歌「君(きみ)が代(よ)」
「君が代」は歌詞が世界で最も短い国歌です。この歌詞の「さざれ石の巌(いはほ)となりて」を「岩音なりて」と勘違いをされている方がいますが、さざれ石(細石)や巌というものが日常の中で見当たらないため無理もありません。都内の神社でも設置されているところがありますので、ぜひ探してみてください。
さざれ石とは学名を「石灰質角礫石(せっかいしつかくれきがん)」と言い、長い時間をかけて石灰岩中の炭酸塩鉱物が雨水に溶け出し、それがコンクリート状になり多くの角礫を結合することで形成されます。
小さな石が集まって繋がって巨岩になるそれが「さざれ石の巌となりて」です。
君が代の歌詞の元となりましたのが古今和歌集の賀歌の巻頭にあります「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」という和歌です。日本国の国歌には、細石が巨岩となり苔がむすほど、千年萬年と尽きることなく子々孫々と国の平安が続きますようにと祈る思いが込められています。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■干支(えと)
干支とは、十干(じっかん)と十二支を組み合わせた六十周期の数詞のことで、十干十二支とも言います。
十干には、甲(きのえ)・乙(きのと)・丙(ひのえ)・丁(ひのと)・戊(つちのえ)・己(つちのと)・庚(かのえ)・辛(かのと)・壬(みずのえ)・癸(みずのと)の十種類があり「え(兄姉)」と「と(弟妹)」が交互に訪れることが「えと」と呼ぶ所以と考えられています。
生まれて六十年経て干支の組み合わせが一巡し、生まれた干支に還ることを「還暦」と呼びお祝いをします。
干支は暦だけでなく長寿を皆で祝う指標でもあるのです。
令和二年十二月【徳川家康】
人の一生は重荷を背負うて
遠き道を行くが如し
いそぐべからず

『東照公御遺訓』の冒頭の一節
「不自由を常と思えば不足なし…困窮したる時を思い出だすべし」と続く
『論語』(泰伯第八)の「任重くして道遠し」を踏まえた徳川家康の処世訓といわれる
 
【徳川家康 (とくがわ いえやす)】
桶狭間の合戦以来、織田信長と同盟を結び頭角を現し、北条氏滅亡後に関八州の江戸に入城する。関ヶ原の合戦勝利により征夷大将軍に補任され、大阪の役後には安寧の世を目指し「元和偃武(げんなえんぶ)」として江戸幕府二六五年の礎を築いた。
死後朝廷より東照大権現の神号が贈られ久能山・日光山に東照宮として祀られた。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■家庭祭祀(かていさいし)
神棚(宮形)に天照大御神・各氏神・崇敬神社のお神札(お札)をおまつりし、朝に夕に神恩感謝のお参りをすることを家庭祭祀と言います。
お札は必ずしも宮形が無ければならない訳ではなく、お札のみを並べておまつりすることもできます。何よりも尊ぶ心を持って、真心を込めておまつりすることが大切です。
お札の取り換えは新年を迎える前に行います。一年間大切におまつりしたお札を下げ、神棚を丹念に掃除したのち、年末に受けた新しいお札をおまつりしましょう。
令和二年十一月【佐久間象山】
士は過ちなきを貴しとせず
過ちを改むるを貴しと為す

失敗しない事のみを
優先するよりも
一所懸命に取り組んだ末の
失敗を正す事にこそ
人の成長がある
 
【佐久間象山 (さくま しょう(ぞう)ざん)】
幕末の朱子学、兵学、洋学者。
海外情勢を学ぶうち国防に危機感を抱き「海防八策」の意見書を上書。江戸で海防講義の塾を開き吉田松陰、勝海舟、坂本龍馬など多くの志士達に影響を与えた。松陰の黒船密航事件に連座し蟄居。後に許され幕命で京都に上るも攘夷派の浪士に襲撃され殉難。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■散米(さんまい)と賽銭(さいせん)
現在では参拝の際、賽銭箱に金銭を入れお詣りすることが一般的ですが室町時代以前は金銭ではなく、収穫した農作物や海山の幸をお供えしていました。中でも、天照大御神によって授けられたと伝わるお米は神聖なもので、神の恵みに感謝し収穫したお米をお供えすることで翌年の豊作を願いました。神聖なお米を白紙に巻いて包み「おひねり」として供える形と、お米を撒く散米の形があり今も行われる所があります。金銭を神社に奉納する際に初穂料と書くこともお米を供えていた頃の名残です。
令和二年十月【皇后陛下】
大君の 母宮の愛でし
御園生(みそのふ)の 白樺冴ゆる
朝の光に

― 平成三十一年歌会始お題「光」
 
【東宮御所の白樺】
上皇上皇后両陛下に捧げる感謝の御歌
天皇皇后両陛下が平成の時代をお過ごしになられた東宮御所のお庭には、上皇上皇后両陛下が昭和時代をお過ごしになられた際に、慈しまれ大切にお育てになられた、上皇后陛下のお印(しるし)の白樺の木立があります。
この御歌はそのような白樺の木々が、朝の光をうけて白く輝いている様子を、この美しいお庭の景色を御覧になりながら二十数年間過ごしてこられたことへの感謝のお気持ちを込めて、お詠みになられたものです。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■七五三(しちごさん)
七五三の起源は平安時代の公家の習慣に遡ります。当時は幼児の生存率が低く、特定の年まで命を繋ぎとめてくださったことを神様・御先祖様へ感謝し家族で祝う儀式として行われ、その後武家社会にも広がっていきました。七五三とは三つの儀式の総称で、古くは「髪置(かみおき)」「袴着(はかまぎ)」「帯解(おびとき)(紐解/ひもとき)」といいました。
髪置は三歳男女児がもう赤ん坊ではないという意味から、今まで剃っていた髪を伸ばし始める祝儀。袴着は五歳男児が初めて袴を着ける祝儀。帯解は七歳女児が、着物の付け紐を帯に替える祝儀です。五代将軍徳川綱吉の子、徳松の健康を祝う儀式を天和元年十一月十五日に行ったことにあやかり庶民もその日にお祝いするようになったといわれています。
現在では、十一月十五日に神社へ参拝し、神様に子供の成長と健康を感謝し、今後の更なるご加護を祈願する儀礼となりました。尚、本来は数え年で祝いますが、最近では満年齢で祝う割合が高くなり、参拝の日取りも十一月十五日に拘らず、その前後の都合の良い日に参拝する傾向が強くなってきています。
令和二年九月【ルートヴィヒ・グットマン】
失ったものを数えるな
残されたものを最大限に活かせ

【ルートヴィヒ・グットマン】
1899年~1980年。ドイツの神経医学者。
傷痍軍人の身体的・精神的なリハビリテーションにスポーツが最適と考え、入院患者を対象に競技大会を始め、パラリンピックの創始者となった。言葉は傷痍軍人にかけられた言葉。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■中今(なかいま)
『続日本紀(しょくにほんき)』の宣命に記され、のちに本居宣長(もとおりのりなが)が「今をいふ也(中略)盛(さか)りなる真ん中の世とほめたる心ばへ有て」と解釈をした「中今」という言葉があります。その後、国民の住みよき世を目指し、日本の近代化を進めた明治の御代を経て「中今」は「現在とは過去と未来を結ぶ中心点」を表す言葉として、そして天地が窮まり無く永続であるという日本古来の時間観と重なり、「今を生きる心得」として捉えられ用いられるようになりました。その「中今」の心得とは、「今」とは過去と未来をつなぐ中心にあり、悠久なる歴史と自分自身との出会いの場である一刻一刻の「今」を力一杯生きて、生活をできうるかぎり価値あるものとし、未来を支えるための一端を担うことにあります。
地球環境の大きな変化に直面する私たちの「今」に照らし合わせますと、一人一人が与えられた「今」を最大限に活かし、自然を豊かなまま持続できるよう努め、「今」と変わらぬ実りを未来に渡す繋ぎ手として、「中今」を過ごすことが求められています。
令和二年八月【今上陛下】
人みなは 姿ちがへど
ひたごころ 戦(いくさ)なき世を
こひねがふなり

― 平成九年歌会始お題「姿」
 
終戦75年目の夏
―平安の世を願う陛下の御心―
この御歌は、平成九年歌会始(皇太子時代)に詠まれた御歌です。阪神・淡路大震災の復興と平安が強く望まれた時代です。陛下は昨年五月一日、即位後朝見の儀のお言葉にも「象徴として国民の幸せと世界の平和を切に希望します」と語られました。同じく昨年の歌会始では、
「雲間よりさしたる光に導かれわれ登りゆく金峰の峰に」と、上皇陛下の後姿を「さしたる光」と御心を詠まれました。
この上皇陛下の後姿は、「国やすかれ民やすかれ」と祈り、「国の象徴」として被災地に寄り添い悲しみを分け合うお姿、激戦地の英霊に平和を誓う鎮魂の黙祷をするお姿であり、私たち多くの国民に深い感動を与えました。
昨年、践祚後の一般参賀では人々の寿ぎの声が皇居を埋め尽くし、平安絵巻さながらの即位礼では日本の古き伝統を心に残し、
五穀豊穣と安寧を祈る大嘗祭は「国やすかれ 民やすかれ」の祈りの極致を現わしました。今上陛下に受け継がれた
「国民と共に歩む在り方」は戦後の疲弊と混乱の中で全国行幸を成し遂げられた昭和天皇のお心に繋がるものがあります。
昭和天皇の御製に、
「身はいかになるともいくさとどめけりただたふれゆく民をおもひて」と詠われた公正無私のお姿が今上陛下にも脈々と息づいています。
令和二年七月【嘉納治五郎】
人に勝つより自分に勝て

【嘉納治五郎(かのう じごろう)】
摂津国御影村(神戸市東灘区)生まれ。
嘉納治五郎は教育者として、柔術に独自の理論と合理性を組み込み、競技としての講道館柔道を開き、その思想は後の多くの武道家にも影響を与えました。アジア人初のIOC委員となった嘉納は、昭和十五年の「幻の東京五輪」の招致に成功しましたが、その背景には第二代IOC会長クーベルタンとの親交がありました。教育者の二人はスポーツを通じて青少年を教育する意義と重要性を強く共有していました。
日本武道協議会によると、武道は武士道の伝統に由来する日本で体系化された武技の修練による心技一如の運動文化と定義されます。「心・技・体」を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する人間形成の道です。
嘉納の「精力善用(せいりょくぜんよう)・自他共栄(じたきょうえい)」の考えは柔道で身に付けた力を社会のために使い、対戦相手と共に成長するという基本的な理念で、まさに近代五輪の精神と融合するものでありました。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■神道行法(しんとうぎょうほう)
神明奉仕の為に神職が行う修行のこと。行法は、精神と身体のバランスを保つ為に重要なものであり、冷水をかぶる「禊行(みそぎぎょう)」や、魂を鎮める「鎮魂(ちんこん)行」等があります。
中でも、水の力により罪や穢(けが)れを祓う「禊行」は必須とされており、都内神社に奉仕する神職の多くが、一月の大寒禊、七月の武州御岳山滝行に臨みます。皆様が参拝前に手と口を清める手水も、水を用い身体の内外を清めることから「禊行」を簡略化したものと言えます。
令和二年六月【詠み人しらず】
水無月(みなづき)の 夏越(なごし)の祓(はらへ)
する人は 千年(ちとせ)のいのち
延(の)ぶといふなり

半年間を過ごす日々で
知らず識らずのうちに内(心)と外(身)に
降り積もる罪(つみ)・穢(けがれ)を祓清め
心身を清浄な形に戻すことで
暑い夏も健康に過ごし
長命を得られると考えられています
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■夏越大祓(なごしのおおはらへ)・茅(ち)の輪(わ)神事
多くの神社では六月と十二月の晦日(みそか)に、半年間の罪・穢れを祓清める「大祓」が行なわれますが、特に六月の大祓は「夏越大祓」とも言われ、暑い夏を乗り切れるよう無病息災を祈り、神社によっては茅の輪をくぐる神事が行われます。この茅の輪とは『備後国風土記(びんごのくにふどき)』の中で、武塔神(むとうしん)という神が旅の途中、裕福な巨旦将来(こたんしょうらい)と貧しい蘇民将来(そみんしょうらい)に一夜の宿を求めると裕福な巨旦将来は断り、貧しい蘇民将来は快くもてなしました。
武塔神はもてなしに報いて、「われ素戔嗚命(すさのをのみこと)なり。疫病が流行ったら蘇民将来の子孫は腰に茅の輪をつけなさい」と教え、疫病が流行ったとき腰に茅の輪をつけている蘇民将来の子孫は難を逃れたという神話から由来します。現在では大きな茅の輪をくぐり、罪・穢れを祓い無病息災を祈るようになりました。地域によっては小さな茅の輪を玄関にかけ、あるいは「蘇民将来の子孫」と書かれた札を入口に掲げる所もあるようです。
皆様も大祓を行い次の半年間を清々しく新たな気持ちでお迎え下さい。
令和二年五月【二宮尊徳】
今日の暮らしは昨日にあり
今日の丹誠(たんせい)は
明日の暮らしとなる

恵みとは日々の暮らしを大切とすることで与えられるものである
『万物発言集草稿』
 
【二宮尊徳 (にのみやそんとく)】
相模国柏山村(神奈川県小田原市)生まれ。江戸時代後期の農政家。通称金次郎。各地で荒廃した農村の復興にあたると共に、「天地人」三才の徳に報いる報徳(ほうとく)思想を唱えた。明治以降は勤倹力行(きんけんりっこう)の象徴として、全国の小学校に少年金次郎像が建てられた。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■御田植祭(おたうえさい)
御田植祭は、その年の豊作を祈って行われる田植えの神事です。宮中では昭和天皇以来、毎年五月頃に皇居内生物学研究所にある水田に陛下御親(みずか)らお手植えなさいます。これは皇祖神である天照大御神から神勅とともに授かった「お米」に感謝し、米作りをなされ、秋には収穫した「お米」や「根付きの稲穂」を神々にお供えなさいます。全国の神社や神田においても、常に神様やご先祖様の恩恵をうけて作り続けられてきた日本人の生きる糧でもある「お米」に感謝の心をこめ御田植祭が行われます。
令和二年四月【福澤諭吉】
一家は習慣の学校なり
父母は習慣の教師なり

人間教育の基礎として家庭内での良き習慣が重要である
『家庭叢談(そうだん)』
 
【福澤諭吉(ふくざわ ゆきち)】
幕末から明治の啓蒙思想家、慶應義塾の創始者。儒学者の父親と身分にこだわらず人々にやさしい母親の影響を受けた。国民の独立自尊にもとづく国家の発展と繁栄を目的として思想活動を展開した。「家庭叢談」(明治九)福澤諭吉刊行の家庭の団欒の記事を集めた雑誌の一文。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■立皇嗣(りっこうし)の礼
今上天皇即位礼正殿の儀から半年後の四月十九日に、皇嗣である秋篠宮文仁親王殿下が皇位継承順位一位である立場を国の内外に宣明(せんめい)する儀式。立太子の礼(皇太子の身分を内外に宣言する儀式)にならい行われます。
皇嗣とは皇位を継承することを予定されている皇族を言います。天皇退位特例法に基づき、立皇嗣宣明の儀・朝見の儀・宮中饗宴の儀等が皇居宮殿正殿松の間等で行われます。
令和二年三月【斎藤茂太】
人生に失敗がないと
人生を失敗する

【斎藤茂太(さいとう しげた)】
大正五年生まれ。精神科医、随筆家。
歌人で精神科医の斎藤茂吉の長男として東京市(当時)に生まれる。「心の名医」「モタさん」の愛称で広く親しまれ、多くの悩める人を勇気づけ、人間関係を楽にしてくれる人生術に多くの人が共感した。日本精神病院協会の名誉会長を務めながら執筆を続けた。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■皇霊祭(こうれいさい)
宮中では春分の日と秋分の日に皇霊殿において、天皇陛下が歴代の天皇・皇后・皇族の御霊をまつる皇霊祭と言う祭儀が行われます。
私たちの日常においても春と秋のお彼岸にご先祖様のお墓参りに行く習慣があります。「春のお彼岸」は農耕期に入る前、祖霊に日々の感謝を捧げ、家や家族をお守り頂けるようお祈りし「秋のお彼岸」は自然の恵みに感謝すると共に、祖先を敬い代々受け継がれてきた命の大切さ、家族の絆を再認識する節目の日とされています。
春と秋のお彼岸の日は、現在では春分の日(自然をたたえ、生物を慈しむ日)、秋分の日(祖先を敬い、なくなった人々をしのぶ日)とされ祝日に制定されました。
いつもお守りお導きいただいているご先祖様に感謝の心を常に忘れる事無く、御霊をお慰めいたしましょう。
令和二年二月【聖徳太子】
和(やわらぎ)を以て貴(たふと)しとなし

【十七条の憲法 第一条】
「やわらぎ」とは穏やかで平和であることを意味します
身分や思想で反発するのでなく和を重んじ活発な議論を行い調和していくことが最も大事です
 
【聖徳太子(しょうとくたいし)】
用明天皇の第二皇子。「聖徳太子」は、後世の諡号。厩戸皇子(うまやどのおうじ)、厩戸王(うまやどおう)とも呼ばれる。推古天皇の摂政として国内緊張のなか大臣蘇我馬子と協調し、遣隋使派遣・冠位十二階の制・十七条の憲法の制定など外交・内政面に尽力し、大王(天皇)を中心とする国家体制を目指した。
 
【神道知識の誘(いざな)ひ】
■天長祭(てんちょうさい)
天皇陛下の御誕生日をお祝いして、ご長寿並びに国民の平安をお祈りするお祭りです。「天長」とは、老子の「天は長く地は久し(天長地久/てんちょうちきゅう)」より引用され、古くは天皇陛下の御誕生日は「天長節」、皇后陛下の御誕生日を「地久節(ちきゅうせつ)」と呼んでいました。
天皇の徳を天に例え天が永遠であるように天皇の治世が末永く続くようにという趣旨で、明治以降は一世一元のため天皇の治世が末永く続くということは、同時に天皇陛下の長寿を祝うことになります。
令和二年一月【上皇后陛下】
神まつる 昔の手ぶり
守らむと 旬祭(しゅんさい)に発(た)たす
君をかしこむ

【神道知識の誘(いざな)ひ】
■旬祭(しゅんさい)
宮中三殿において毎月の一日十一日、二十一日には神々へ国家国民の平安をお祈りする「旬祭」が執り行われます。
主に掌典長が祭典を行いますが、原則として一日の旬祭には天皇陛下の御拝礼があり、陛下御親(おんみずか)ら神々に感謝し国家国民の平安を祈念されます。
全国の多くの神社でも、「月次(つきなみ)祭」など名称の違いはありますが、毎月一日に神様へ日々の御礼とご加護をお祈りする祭典が行われます。
令和元年十二月【文室真人智努】
天地(あめつち)と 久しきまでに
万代(よろずよ)に 仕(つか)へ奉(まつ)らむ
黒酒白酒(くろきしろき)を

【文室真人智努(ふんやのまひとちぬ)】
天武(てんむ)天皇の孫。初名は智努王(ちぬおう)。天平勝宝(てんぴょうしょうほう)四年、文室真人姓を賜与され臣籍に下る。同年十一月二十五日の新嘗会(しんじょうえ)の肆宴(しえん)で応詔歌を奉り、後に万葉集十九巻に採録された。
令和元年十一月【上皇陛下】
父君の にひなめまつり
しのびつつ 我がおほにへの
まつり行なふ

【上皇陛下】
第百二十五代天皇
【ご誕生】昭和八年十二月二十三日
【ご称号】継宮(つぐのみや)
【お印】榮(えい)
【譲位】平成三十一年四月三十日
令和元年十月【本居宣長】
高御座(たかみくら) 天(あま)つ日嗣(ひつぎ)と
日の御子の 受け伝へます
道は斯の道

【本居宣長(もとおり のりなが)】
江戸時代の国学者。源氏物語、古事記など古典文学の注釈や漢字音、文法などの国語学的研究にすぐれた業績を残した。また復古思想を説いて儒教を排し、国学の思想的基礎を固めた。国学四大人の一人。
令和元年九月【上皇陛下】
夕やみの せまる田に入り
稔りたる 稲の根本に
鎌をあてがふ

【上皇陛下】
第百二十五代天皇
【ご誕生】昭和八年十二月二十三日
【ご称号】継宮(つぐのみや)
【お印】榮(えい)
【譲位】平成三十一年四月三十日
令和元年八月【昭憲皇太后】
日にみたび 身をかへりみし
古(いにしへ)の 人のこころに
ならひてしがな

【昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう】
明治天皇の皇后
【ご誕生】嘉永二年四月十七日
【お印】若葉(わかば)
【ご陵所】伏見桃山東陵
令和元年七月【明治天皇】
白雲の よそに求むな
世の人の まことの道ぞ
しきしまの道

【明治天皇】
第百二十二代天皇
【ご誕生】嘉永五年九月二十二日
【ご称号】祐宮(さちのみや)
【お印】永(えい)
【ご陵所】伏見桃山陵
令和元年六月【昭和天皇】
さしのぼる 朝日の光
へだてなく 世を照らさむぞ
我がねがひなる

【昭和天皇】
第百二十四代天皇
【ご誕生】明治三十四年四月二十九日
【ご称号】迪宮(みちのみや)
【お印】若竹(わかたけ)
【ご陵所】武蔵野陵
令和元年五月【天照大御神(あまてらすおほみかみ)】
天壌無窮(てんじょうむきゅう)

【天壌無窮の神勅】
皇孫(すめみま)に勅(みことのり)して曰(のたま)はく、「豊葦原(とよあしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みづほ)の國(くに)は、是(これ)、吾(あ)が子孫(うみのこ)の王(きみ)たる可(べ)き地(くに)なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)、宝祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)り無(な)かるべし」
 
【口語訳】
天照大御神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に勅して申されるには、「豊かで瑞々しいあの国は、わが子孫が君主として治めるべき国土です。わが孫よ、行って治めなさい。さあ、出発しなさい。皇室の繁栄は、天地とともに永遠に続き、窮まることがありません。」