其の壱:なみだ橋と立会川海岸の魚市
品川八ッ山から東海道を南下すると最初の橋は目黒川に架る品川橋、二つ目の橋は立会川に架る「なみだ橋」である。
この道は昔、代官所役人に引かれて刑場に向かう罪人たちが通った道である。鮫洲林町の米屋さんのおじいさんが、八百屋お七などの罪人が馬や鳥籠で運ばれて行くのを二階の窓から眺めたことがあると話していた。
なみだ橋から鈴ヶ森刑場までは三丁ばかりであるが、この橋で罪人と見送り人たちが最後の涙を流して別れたというので、なみだ橋と名づけられ、明治の時代から街の人々は、そう呼んでいる。
この歴史的背景を知ってか知らぬでか大正時代に大井町役場は橋標を「はまかわばし」に代えてしまった。なみだ橋では昔の暗い史実を忌み嫌ったのかもしれないが残念な事である。
しかし、それから五十年経っても「はまかわばし」といっても知る人は少ない「なみだ橋」といえば知らない人は無いくらい、庶民に馴染み深く溶け込んでいる。
大正期にこの辺は潮風も吹き松林もあり潮干狩に海水浴に、東京の別荘地と書かれた事もあった。また東京湾の漁業も盛んであった。なみだ橋は立会川河口にあり、浜川漁船の桁舟の碇泊地として魚貝はここに水揚げされる。
漁船が入ると橋畔に夕市が立ち魚貝の仲買や問屋の取り引きもあった。土地の人たちへの売捌きも盛んに行われ、お陰で毎日、新鮮で安い魚が食べられた。その頃、コチや鰈(カレイ)など、一山で十銭で買えた。獲りたての小魚は「近海物」といって、その味は身が締まっていて格別にうまい。
特に渡り蟹は安くてうまかった。大バケツに一杯(二、三十匹)が五十銭で買えたので家中でおやつにして食べたり、田舎に土産にしたり毎日のように味を堪能したものだった。
この絵で橋の前に立っている人は魚仲買の山市(井上市五郎さん)で生簀(いけす)のある魚問屋。新宮薬館は薬商だ。薬商の前は弁天湯と天祖神社で私達は神明様(しんめいさま)と呼んでいた。神明様の入口には桜井という種屋があり眼鏡をかけたおばあさんが日向ぼっこしながら店番をしていた。橋の手前には吉田と言う舟宿があり、入口の紙張りの障子には「つり安」と書いてあった。